昭和45年5月24日 朝の御理解
御神訓一、「信心して、まめで家業を勤めよ、君のためなり、国のためなり」
分かったですね。一つ、「信心して、まめで家業を勤めよ、君のためなり国のためなり」
これは、戦時中、各教会に、こう信心の一つの、まぁスローガンといったようなものだったんですよね。何処の教会でもそれが書いて、下げてございました。ん、「君のためなり、国のためなり」ね、全てがこの君のために、国のためにしぼられておった。お互いの仕事というものは、御用はね。
それに繋がらないものは、まぁ、非戦闘的とでも申しましょうかね。その、戦争のそれに、帰依しないというので、えー、まぁそれに相応しくない仕事なんかは、皆止めさせられましたですね。非生産的な仕事とかなんとかといったようなものは。
もう全てが君のためであり、国のためであるというように、( ? )。戦争が、まぁ終戦になり、そして、今日こんな平和な、まぁ日本は出来、事になってまいりましたら、又そして、段々、んー、苦しみといったようなものが、他の主義に変えられるようになりましたら。この「君のためなり、国のためなり」というのはもう、ちょっと可笑しい事になってきたんです。
けれども、私は思うんですよね。教祖様がこうやって、あのちゃんと教えて下さっておるみ教えの中に、そんないらん、いらんようなみ教えがあるはずはないと思うんです。ですから、ここんところは、私はあの、それこそ、当時は、これは天皇陛下の御為であり、日本国の為であるという事だったんですけれども、これは社会のため。
自分のしておるその、御用というものが社会のためになるか、ならないかという事。そのことに打ちこませて頂くという事は、取りも直さず、自ら自身のためなのだと、君自身のためだと頂かなければならんだろうと思いますね。
君のためという事は、私自身のためなんです。それも私だけのためであってはならない。社会に公権するものでなかなきゃならない。社会に奉仕するという内容がなからなければならない、ということだと思いますね。
ですから、「君のためなり、国のためなり」というところは、そういう風に解釈させて頂いたら良いと思います。そこで今日私は、「信心してまめで家業を勤めよ」というところに、焦点を置いて、まぁ聞いて頂きたいと思うんです。
信心して、ですね。まめで家業と勤めよ、と。ん、勿論まめであるということは、健康であるということでしょうね。元気であると。又は、このまめまめしくとこう申しますから、まぁ甲斐甲斐しくという事だと思いますね。
いわば、生き生きとしてという事だと思うです。信心して生き生きとしてという事は、結局信心して、内容が喜びいっぱいで、という時には、私は必ず、まめまめしく、甲斐甲斐しく御用が出来ると思うんです。ね。
2、3日前に、この、久保山さんがお届けしておられますように、もう最近は、神様のありがたさというものが、しみじみ身に染みますと。親先生、親神様と祈り、念じさせて頂いておりますと、目の前に、この御結界で奉仕をしとる親先生の姿が、目の前にありありと見える感じが致します。
ね、仕事させて頂いておっても、親先生、親、金光大神様というて、お唱えさせて頂いておりますとですね、先生仕事がはかいく事、はかいく事。これはもう本当に不思議だと自分で言われる。
ね、私はそのくらいなね、働きがあるほどしに、私はまめまめしく、甲斐甲斐しくという事は、そういう内容があると思うです。
例えば普通でいうならば、まめまめしく、甲斐甲斐しく立ち働いておる人はいくらもあります。けれども、ここには信心してとありますね。だから信心させて頂く者の、まめまめしさとか、まめでと、といのはね、その内容がね、生き生きと喜びいっぱいでという事だと思うんです。ね、だからそこにはです、仕事がはかいく事、はかいく事という事になってくるのです。
これはね、もう理屈じゃないです。ね、教祖様の御事跡の中にもありますように、あの、唐臼を引かれる場面がございますね。さぁ神が手を離すぞと仰ると、途端に臼が重くなる。さぁ神が手を貸すぞと仰ると、かろうに鼻歌交じりで一日御用をされた、というような事跡が残っとる。お話しが残っております。御伝記の中に。
ん、ですから、信心はそこが違うのですよ。そういうおかげが受けられるのが信心なんです。そげな馬鹿なことがあるものかといったら、もう信心は無いです。ね、ですから、いかに、その心のない、その内容というものがです、ね、いわゆる喜びいっぱいであるという事がまめまめしいことになってくる、来るのであり、まめである。いわゆる心が健全なのです。
ね、肉体の健全と同時にですね、心がまず健全でなからなければならないことを、信心してとこう仰るのじゃないでしょうかね。
あー、又今日もこん仕事ばせにゃんちうごたるものと全然違うのです。食べんならんけんせにゃん。生活のために働きよると。ね、そういう事ではね、私は、信心してまめで家業を勤める、という事にはならない。
信心して、ね、まめで家業を勤めるという事がです、私自身のためにも、それが、その御用を通してです、それが社会のお役に立たせて頂くという事につながるおかげを頂くために、ひとつまめまめしく。
ね(?)月次祭が済みましてね、昨日は、あの、ここの、あん機会室の、でちょっと何か故障があっとったから、遅うまでガタガタ、修繕して(きた、いきよりました?)(皆さん?)。でそれが済んでから、まぁお夜食が(頂きたい?)お夜食の中に、今日はまめご飯が炊いてあるてから、なら私はもう腹の時計食べんちいうちから(いいままった?)けども、そげなこといわんな食べなさい、こりゃまめご飯じゃから。まめでいっちょ元気に、ままにならにゃいかんからもう、繁雄さんがいう、まめまめしゅうなるなるちゃけん、食べなさいちいうてから、皆に。
夕べそんなこときいとったからでしょうか、今日御理解を開かせて頂いたら、このまめまめしいところば頂くとです。本当。本当にね、まめまめしゅうならにゃいけんです。
昨日、昨日の晩でした。あの、(ちょうちょいゆうじ?)あの何かがあってましょうが。あの、夫婦の方の色んな、あのね、聞くあれが何とか、( ? )何とかちゅうんですよね。
あれにですね、私見せて頂いておりましたら、盲さん達夫婦が出ておられましたですね。ん、もう五十年配、奥さんはまぁ四十五年配の人達でした。それが3人、2人ですけれども、3人きとんなさいます。それがやっぱり、その、見たところ、二人共、めか、目明けにはしてある。目明きは目明きですけども、見えんとですたいね。目はあいとるとじゃけん。
それがもうね、どうしてその出られたかというと、その近所の方がいよんなさいます、もうその、マッサージ、(あん?)マッサージなんですかお二人とも。それがですね、もうとにかく仲の良いこと。仲の良いこと羨ましいごと仲が良かった。
それで私はどうでんこうでん、あの、夫婦(ぜんだ?)夫婦(ぜんざい?)ですかね。(ちょう?)という字の夫婦(せんざい?)ん、あれにその出なさいというて、私が進めて出てもらいましたと言うておられました。
それがですね、もうそれはもう本当に仲が良い。まぁお仕事が終わられると、晩御飯もう何も不自由しないといわれます。もう目明きと同じ事、二人とも。のごと、まぁ感が強いわけですよね。
したらご主人がお酒が好きだそうです、ですから、晩酌をされますと、まぁ歌の一つも歌われる。そすと私が横で手を叩いて、調子をとりますとこういう。ね。耳は聞こえるんですから、はー、家内が自分がいっぱい機嫌で歌を歌いよると、奥さんが横から手を叩きよんなさる。
もう私それを聞かせて頂いて胸があつうなりました。丁度文男先生が、あの、田主丸の共励会から帰って来てから。丁度若先生とここに来ておりましたから、文男さんとても、本当に目開けが恥ずかしいねーて。
こりゃいっちょ本気で夫婦仲ようせにゃいかんばいちいうちから話したことでした。めくらさんでさえこげんなんだもん。ね、もうそれがね、(いしんでんしん?)通いますち。その中の、その思いが。それこそ、お互いがもうかいかところに手が届くように奉仕し合いますと。そのまめまめしいね、夫婦がこの、それこそ妻は夫を、夫は妻をですね、大事にし合うておられるというのが、本当に話をききよって目に見えるような感じでした。
ね、いわゆるまめまめしいのですよ。主人に対する奉仕ぶりというのがね、私はね、あの、そのご主人がお酒を頂いてから、ね、もう歌の一つも歌われると、横で手を叩きますといわれるところをですね、もう何とも言えんその味わい。
もう夫婦だけの世界がそこにある。あんた素晴らしい。もうこげな夫婦なら目が見えんでんよかね、ていうごたる感じでした。
それに目明きがどうですか。ね、ご飯を食べるでもぶっつりがっすり言いながら。ね、もう本当に、いわゆるまめまめしゅうない証拠に、そういう風景は、もうあっちこっちにみること。ね、夫婦仲が悪いといった。
お互いがまめまめしい心で、お互いが尽くし合わないからなんですよ。まして、信心させて頂く者が、信心してまめでと。ね、また一枚、あの前の方にはぐりますと、「まめなとも信心の油断をすな」とおありますね。
まめなとも、反対の方には(こりゃ?)始めの方を(やぶん?)ですよ。まめなとも、信心の油断をすな、とあります。
ですから、私共がです、信心してまめでなからなければならんのに、もしまめでないとするならばです、いわゆるこりゃ健康だけのこっちゃないですよ。ね、甲斐甲斐しいという心です。まめな心です。ね、まめまめしい心です。がもしないとするなら、あなたは、信心を何処にか、疎かにしておるということになるわけなんです。
ね、(ばん?)愛しい心というものが、ないならば。ね、もうすでに貴方は、信心してというその、信心のところが、ころ、生活からころはなれておるわけです。信心ではないわけです。ね。
私はね、思うんですがね、ここではまめでということは勿論健康で、ということを指しておられますけれども、まず信心して、心の健全さ、心の健全という事だと思うですね。皆さんもご承知だったでしょうか。三代金光様の、奥様、いわゆるキクヨ姫ですね。
金光様がお亡くなられて、その翌年お亡くなられました。ね、あちらに(えん?)についてみえられましてから、まもなく、胸を患われてから、一生やはり胸の病気で終わられました。
ね、ところがですね、毎日毎日、ね、今日も神様の御用にお使い下さい、という事だけが一生懸命。金光様と一緒に大きくなられる。起きる時にはちょっとつらいけれどもね、そこんところを神様にお願いして起こさせて頂きますと、一日御用が出来ますという、その一日が、何十年間、金光様と御共にですね、金光様のお側の御用をお出来になられたんです。沢山なお子も、お育てになられたんです。
ね、この胸の病気を全然直っておらない。けれどもね、例えばその、いわばまめではなかったけれどもです、そのまめまめしい心がね、神様に向う時に、もう例えば胸、胸の病気であったも、その胸の病気が御用に一つも差しつかえてはいないという事だ。
私共でも思います。ね、椛目時代、あのように、足がたちませんでした。又は糖尿病で、えー、普通から言うと、あれは食べちゃいかん、こうしちゃいかんという事ですけれども、ね、私がただ、これは私の執念のようなものなんですけどね、ね、どんなに病気でもよい。足がたたんでもいい。これは有り難いことなんだ。かえって。
私はここへ座って、皆さんのお取り次ぎの御用が出来りゃもうそれでいいのです。このことだけに執念をかけている、思い一年をかけている。だから私はどんなに病気をさえせて頂いても、お取り次ぎをさえて頂くことに差し仕えのないおかげが頂けれると、まぁ私は確信致しております。
そういう心が私は、まめまめしい心だと思うんですよ。ね、ですから、これはなら、病人になって、ここの所が頂けれるわけです。必ず健康ということだけじゃにない。次にありますでしょう。ね。
「信心してまめで家業を勤めよ」と仰ってるから。お互いの持ち場立場においての、その家業が勤められる。しかもまめまめしゅう生き生きと。甲斐甲斐しく。その内容は生き生きと有り難く。
ね、それこそ久保山さんじゃないけれども、有り難い、有り難いで御用させて頂きゃ、仕事のはかゆく事。はかゆく事。まぁ不思議と思われるほどしに、仕事がはかいきますと言うておられるんです。これは皆さんも体験がある事でしょう。ね。
ですから、いかに、私共の心、心の問題。ね、心が生き生きと神様に向い、心が生き生きと、喜びであらなければならんかという事が分かります。しかも、その御用がその、お互いの持ち場立場の、その御用がです、ね、社会のお役に立たせて頂くという事に、繋がっておることを願いとしなければならん。
私が儲けだしすればええという事じゃない。ここにお野菜ならお野菜を作らせて頂いておる、このお野菜がです、ね、沢山の人の食前に上る。沢山の人の、ね、健康にも繋がる。働きのエネルギーの元にもなる。
ね、いうなら沢山の人に喜んで頂ける事のために、このお野菜作りが出来るという、願いをもっての、お野菜作りであるならばです、それは社会に公権しておるのです。
ね、いわゆる国のためなり、であります。そういう働きをさせて頂くことが、とりも直さず、君のためにもなるんだぞという事です。ね、お前自身のためにもなる事ならば、ためには信心してまめで家業を勤め、君のためなり、国のためなり、ということになってまいりますと、このみ教えが大変生き生きと、それこそしてまいりますよね。
それでも私共は、人間生身を持っておりますから、何処にお粗末、ご無礼があるやら分かりませんのです。その証拠には、何とはなしにだーるなってから、眠気がついてきたり。今日はいっちょん仕事をしようごとなかったり。ね。そういう時がある。そういう時にです、いわゆる、まめなとも信心の油断をすな、と仰る。必ず信心の油断をしておる時であるから、信心の方をほっと気付かせて頂くようなところに気付かせてもろうて、心を神様に向けて行くところにです、又まめまめしゅう、甲斐甲斐しく、ね、その御用に立ちさわらせて頂くことが出来る。
ね、まめで家業を勤めよ、元気で、これまめでていうことは元気でという事だと思いますね。健康でという事。信心させて頂いて、ね、心に金光様を念じさせて頂きながら、おかげを頂きますと心が生き生きとしてまいります。
その生き生きした心が、私は、まめな心だとこう思います。ね、そのまめな心がです、ね、肉体のまめにも繋がることでしょう。ね、それが喜びになり、内容が喜びになり、いわゆるまめまめしゅう、甲斐甲斐しく御用に立ちさわらせて頂くことが出来るでしょう。
ね、これが人間関係の場合であっても、なら、先程のめくらさん夫婦のお話じゃないですけれども、ね、妻は夫のために、夫は妻のために奉仕し合う。それこそまめまめしい。ね、主のすきな赤烏帽子である。
主人がお酒を頂いて、いっぱい機嫌でおられ、歌の一つも出る時には、家内が側でいて、こう手をでもたたけれるというようなです、私は、まめまめしさが欲しいと思うです。
もう家の( ? )ばかりは、飲むことばっかりの、ちからちゅうごたる風なものじゃ全然なかちゅう事です。ね、これではやっぱいけんのです。ね、私本当にやっぱり主人がお酒でも頂きよるなら、側でね、まぁその、なんていうですか。その例えば飲めなくてもです、そのお酒を飲んでおられる、その雰囲気を盛り上げるぐらいなね、私は奥さんであって欲しいと思うんです。それがまめまめしいことなんですよ。
あんた一人で飲まんの、ちゅうごたる風でここから( ? )くったるこっちゃね、よかろうはずが絶対ありません。それで外さに出て行くわけです。と言うような結果にまでなりかねない。
ね、どうでも一つ、今日の御理解を頂いて、信心してまめで家業を勤めよと、まめでということは、勿論元気なということでしょう。けども、心がまめでなからなければならない。しかもそれは、まめまめしい働きに繋がっていかなければならない。
しかもそのまめまめしいその、甲斐甲斐しい働きが、ね、社会のお役に立たせて頂けれる祈りと内容がなからなければならない。お野菜一本作らせて頂くでも、これが沢山の人の、ね、喜んで頂けれるおいしいお野菜が出来るような祈りがその中に込められておらなければならない。
そのこと事態が君のためなのである。貴方自身のためなのです。と言うことになる。ね。ところが、そう甲斐甲斐しいというばかりにはいけない事が私共の上には何時もある。ね、体は健康であっても、何とはなしに武将心が出たりです、ね、仕事に打ち込みたくないような時がある。
時には、ね、まめなとも信心の油断をすなと仰る。ね、元気であるけれども、信心の油断をしておるところに、仕事が嫌になってきて、甲斐甲斐しさがなくなってくる時、た、のありますからね、甲斐甲斐しさが自分の心にない時には、まめまめしさがない時には、今こそ信心の、今は油断をしておる時と悟らせえもろうて、又一心に神様に心を向けてまいりますと、そこからおかげが受けられる、と思うのです。
どうぞ信心して、まめで家業を勤めよ。君のためなり、国のためなり。信心して、今日はまめで家業を勤めよというところを、に大体焦点をおいてお話をいたしましたね。どうぞ。
梶原 佳行